障害者 vs 健常者の対立、根っこにあるのはお互いの無知だと思う

障害者と健常者の関係を、俺は道路に例えて考えることがある。

健常者だった頃の俺は車だった。それが事故で自転車になった。そして俺より障害が重い人は歩行者だ。同じ道路にいるが、速度も見える景色も、感じるリスクも全然違う。

これは優劣の話じゃない。同じ道を、それぞれの速度で走っているというだけの話だ。

でもSNSで障害者と健常者の対立を見るたびに思う。車は自転車の不便さを知らない。自転車は歩行者の怖さをわからない。そして歩行者から見れば、自転車でも十分速く見えるかもしれない。

お互いが「自分の立場からしか見ていない」から対立が生まれる。障害者1級の俺はそう思っている。

目次

健常者は障害者の何を知らないか

優先席に座り続ける、障害者用駐車場に停める、障害者用トイレを長時間使う。SNSでよく炎上する場面だ。

健常者側を責める気にはなれない。知らないだけだと思っているからだ。

たとえばクラッチ杖で歩く俺は、外見だけでは障害者とわかりにくい場面がある。優先席に座れば「どこが障害者だ」と思われるかもしれない。障害者用駐車場に停めれば白い目で見られることもある。「見た目でわからない障害」は、健常者には想像しにくいのだろうと思う。

車椅子なら一目でわかる。でも障害は見た目だけじゃない。内部疾患、精神障害、難病——外からは何も見えない障害を抱えている人はたくさんいる。健常者がそれを知らないのは、仕方のないことかもしれない。

悪意があるわけじゃない。見えていないだけだ。

障害者は健常者の何を知らないか

一方で、障害者側にも「知らないふり」をしている部分があると思っている。

俺は以前の記事で、自分が受けている優遇を正直に書いた。非課税収入、配当金の還付、ETC半額、各種割引——数え上げればきりがない恩恵を受けながら、いつの間にかそれを「当たり前」と感じていた自分がいた。

低賃金で懸命に働きながら税金を払い続けている人が、そういった情報を目にしたときどう感じるか。その感情は完全には否定できない。むしろ俺が健常者のままだったら、同じ側に立っていたかもしれない。

健常者に「もっと理解しろ」と言う前に、自分たちが受けている恩恵に無自覚でいるのは、どこかフェアじゃない気がする。

自転車は歩行者の何を知らないか

もう一つ、あまり語られない話がある。障害者同士もわかり合えていない、という話だ。

SNSで時々、車椅子ユーザーと鉄道会社の対応をめぐる炎上を見かける。俺なら別の駅で降りてタクシーを選ぶと思う。でもその発想自体が、40歳まで健常者として生きてきた人間の発想なのかもしれない。

俺はクラッチ杖で歩いている。でも車椅子ユーザーの生活を、正直ほとんど知らない。同じ「障害者」というくくりの中に、全く違う世界がある。

さらに言えば、俺は40歳まで健常者だった。生まれつき障害がある人や、長年車椅子で生きてきた人とは、出発点が根本的に違う。ちなみにデータで見ると、内閣府の障害者白書によれば身体障害者の約9割は後天的に障害を持った人だ。「障害者=生まれつき」というイメージ自体が、実態とかけ離れている。

障害者」とひとくくりにされるが、内側は全然均一じゃない。身体障害、精神障害、知的障害——それぞれの世界は全く違う。俺は身体障害の当事者として書いているが、精神障害や知的障害の方が感じる見えにくさや生きづらさは、正直わからない部分が多い。健常者に「わかれ」と言う前に、自分たちがわかり合えているかという問いは、ずっと頭の片隅にある。

それでも、俺も分断を生む一人だ

もう一つ、正直に言う。

俺は障害者扱いされるのが嫌だ。でも税制優遇も割引制度も使っている。都合のいいときだけ障害者になっている自分がいる。卑怯だとわかっている。それでもやめられない。

たとえば駐車場の話をする。障害者等用駐車区画利用証というものがある。警察署でもらえる証明書で、障害者用スペースに停める際に提示するものだ。空いていれば使わない。自分より障害が重い人のために開けておきたいからだ。でも混んでいれば話は別で、障害者であることをアピールするために利用証を置いて停めることもある。

制度上は正当な使い方だ。でも自分の中では「都合よく使っている」という感覚が消えない。駐車許可証も同じで、以前はたまに使っていたが今は使っていない。税制優遇も割引も十分受けている。それでもまだ使うのかという感覚が出てきて、人目も気になるようになった。誰に言われたわけじゃない。ただ自分の中で「ここは譲れる」と思うようになった。

そのくせ、健常者に見える人が障害者用の設備を使っているとモヤっとする。完全に矛盾している。

障害者と健常者の垣根をなくしたいと思っている俺が、分断を生む一人でもある。

感謝と矛盾を抱えたまま生きていく

制度に対しては本当に感謝している。でもモヤっとする自分がいる。感謝の気持ちが薄れているのか、当たり前になっているのか、たぶん両方だ。

配慮してくれる健常者には感謝できる。配慮のない健常者にはモヤっとする。結局、自分に都合のいいときだけ感謝して、都合が悪ければ不満を持つ。自分勝手な人間だと思う。

では俺自身は何ができているか。正直に書く。

障害者駐車場は空いていれば使わないようにしている。エレベーターは混んでいれば車椅子の人に譲る。混雑時に優先席には座らない。この三つは意識してやっている。ただ駐車場に関しては自分の都合が入ることもある。それは先に書いた通りだ。

割引を使うことには今もモヤっとする。でも家族が一緒のときはありがたく使わせてもらっている。完全に割り切れていない。

最後に一つ気づいたことがある。

家族と一緒に割引を使うとき、ふと思う。この制度は、俺一人のためじゃないのかもしれない、と。

介助が必要な人には、いつも誰かがそばにいる。家族が介助者であれば、その家族も含めて制度や割引に救われている。障害者一人のための制度じゃなく、その周りの人間も含めて社会が支えようとしている仕組みだ。

俺は今、以前に比べて人の世話になることがかなり減った。それでもこれだけの恩恵を受けている。ならば感謝は当然だし、これは権利である前に、社会からの配慮だと思っている。

当然の権利だと思った瞬間に、感謝は消える。そこから分断が始まる気がする。

完璧にできている人間ではない。でも自覚しながら、少しずつ折り合いをつけていく。感謝を持てない瞬間があっても、持とうとし続けることはやめたくない。

車も自転車も歩行者も、同じ道を走っている。それだけは変わらない。

※ この記事はシリーズの第2弾です。第1弾「障害者1級の自分が、受けている優遇を正直に全部書く」もあわせてどうぞ。


📖 俺のこれまでの全記録を読みたい人へ
元職人→廃業→障害→どん底→投資で4,000万円——
この軌跡を一本のストーリーとしてまとめた
ヘタゴリラ一代記」をnoteで公開中です。
ブログではバラバラに書いてきた話が、
時系列でつながります。
note: hetagorilla

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この記事を書いた人

元・建設業の個人事業主。現在は障害年金・労災年金・就業不能保険を活用しながら、配当金を軸に“無理のない自立生活”を目指す50代男性です。
配当投資、住宅ローン、保険の見直しなど、障害と向き合う中で学んだ「お金と生き方」のリアルを発信しています。

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