『価値がなくなった自分に、“生きていい”と許可が下りた日』――絶望の病室から、再出発が始まった話

雑談
記事内に広告が含まれています。

※今回は、いつものブログとは少し違う文体で書いています。
僕の中でも“特別に深く記憶に刻まれた時間”なので、
できるだけそのときの心の声を、そのまま文字にしました。

「もう、歩けませんね」

そのとき医師は、少し申し訳なさそうにこうも言った。

「でも、まだ両手が使えてよかったよ。もう少し上(胸椎や頚椎)だったら、手も動かなかったからね」

……何が“よかった”んだ? もう詰んだやろ、人生。

その瞬間は、そう思った。

実際、僕は高所作業中の転落事故で腰椎を損傷し、ボルトが入った。

その影響で、両下肢が完全に麻痺した。

医師の言う通り、もし胸椎や頚椎を骨折していたら、手の自由さえ失っていた。

けれど、そんな事実よりも当時の僕にとっては──

「自分が一番不幸だ」と思い込むことの方が先だった。

のちに、僕よりも重い障害を負った人たちと出会い、
その気持ちは複雑に変わっていくのだけれど──

当時は、そんなことを考える余裕もなかった。

静かで、残酷な言葉だった。涙は出なかった。ただ、“終わったな”と静かに思った。

建設現場で身体ひとつで稼いできた。「身体が資本」だった僕にとって、それを失うということは、生きる意味そのものを失うことと同じだった。

団信で住宅ローンは消える。死亡保険が出るほうが、家族は楽かもしれない。そんなことばかり考えていた。感情ではなく、冷静に損得勘定していた。障害年金も労災も知らず、保険金は死ななきゃ出ないものだと思っていた。「生きてる意味、あるんか?」と、誰にも言えない問いが心の中にこだました。

下半身はまったく動かない。
寝返りも、排泄も、食事も、何ひとつ自力ではできなかった。

腕は使えても、動かせるだけ。何かを支える力なんて、もう残っていなかった。

病室の天井を見上げながら、ただ一つの思いが頭の中をぐるぐる回っていた。

「これはもう、妻にとって“拷問”だな」

僕ひとりだけならまだいい。だけど、現実には小さな子どもが3人いる。
長男はまだ小学校に入学したばかり、下の双子はまだまだ甘えたい年ごろだ。

その中で、寝たきりの夫が“もうひとりの赤ん坊”として加わるなんて──
そんな生活が、どれほど過酷か。

退院後の生活を想像するだけで、胃が縮むような感覚だった。

「全部“妻ひとり”に押しつけるのか?」

そんな現実が、容赦なく心にのしかかっていた。

ただ生きているだけで、誰かの時間と手間と気力を奪う存在。
呼吸ひとつ、寝返りひとつ、すべてに他人の労力がいる。

そのことが、死ぬほど情けなかった。

家族に会うのもつらかった。目を見られなかった。
「なんでこんな形で生き残ってしまったんやろう」
自分が生きていることが、誰かの負担になっていることが、罪に思えた。

お見舞いに来てくれる人たちも、どこか気まずそうだった。
無理に笑って、「また戻ってくるやろ」なんて言葉をかけてくれるけど、目の奥ではもう僕に未来がないと知っているように見えた。

同業者の顔はもっと残酷だった。「ああ、もう現場には戻れんやろな」そう思われている気がして、視線を交わすのもつらかった。

おむつを履き、排泄のたびにナースコールを押す。
その行為自体が、もう“人間”ではない気がしていた。

看護師さんはプロだと分かっている。
けれど、おむつを交換する瞬間、ふとした表情に「うわ、汚いな」と書いてあるように見えてしまう。

たぶん、それは僕の心がそう見せていただけなんだろう。
でもそのときは、本気で「俺は、汚物みたいな存在なんや」と思っていた。

「俺にはもう、人権すらないのかもしれん」

そう思った。

寝たまま天井を見上げながら、何もできない時間だけが流れていく。
誰にも何も言われないのに、全方向から責められているような気がして、呼吸が浅くなっていく。

そして、冷静に考えてしまったのだ。

「今の俺には、生きている価値がない」

感情ではなく、損得勘定として導き出された答えだった。

僕はずっと、「稼ぐこと」が自分の価値だと信じていた。
誰よりも働いて、家族を支える。それが“正義”であり、存在理由だった。

その力を失った今、残された自分の価値はゼロ。

辛かった。けれど、あまりにも明確で、逆らいようのない現実だった。

すべてを悪く受け取り、どんどん自己肯定感が下がっていった。

“生きている価値がない”という言葉が、体の芯に染み込んでいく。
そうして、心のどこかで「生き残ってしまったこと」に対して、謝罪したくなっていた。

そんな時、掛け捨て保険の担当者が病室に来た。以前からお世話になっていた人だ。今の僕の状態でも保険金が下りること、労災や障害年金の仕組みについて、初めて教えてくれた。「死んだほうが得でしたよね」と冗談交じりに言ったら、少し怒られた。「そんなこと、絶対言わないでください。今の状態でも、しっかり保障されますよ」

その言葉に、「あ、生きててもいいのかもしれない」と思った。

このとき病室に来てくれた担当者さんは、単なる営業マンではなかった。
以前から付き合いはあったけれど、このとき初めて「人として支えられた」と感じた。

僕がどれだけ無知だったか、どれだけ不安を抱えていたかを察してくれていたようで、
制度の仕組みや保険の詳細をひとつひとつ、丁寧に説明してくれた。

それまでの僕は、保険に入ってはいたものの、保障内容については何も知らなかった。

死亡しないと出ないものだと思い込んでいたし、障害や労災の制度についても完全に無知だった。

だからこそ、その担当者から「あなたの状態でも保険金が出ます」と説明を受けたとき、心がふっと軽くなった。

精神的には、まさに“地獄”の最中だった。

でも、もし最初からこの保障の内容を知っていたら、あの絶望の深さは違っていたかもしれない。

保険そのものよりも、「知識があるかどうか」で入院生活の心の重さが“天と地の差”になる──

それを、身をもって知った瞬間だった。

そのときの感謝の気持ちもあって、後日、外貨建て保険にも加入した。

正直、内容を深く理解していたわけではなく、今なら「無知で入った保険だった」と分かる。反省点も多い。

──ただ、保険との付き合い方については、まだまだ無知だった僕には、もうひとつ痛い経験もありました。

実は、別の知り合いの紹介で加入していた“貯蓄型保険”があったのですが、そちらは僕のような障害には一切給付が出ませんでした。加入時に内容をよく確認せず、ただ「将来のために貯めておけば安心」と思い込んで入ったもので、保障内容も仕組みも理解していませんでした。

いざというときに何の役にも立たなかった。だからこそ、今は声を大にして言いたいんです。

「保険は、入ること自体よりも、“ちゃんと理解しておくこと”が命を守る」

それを知らないままでは、“安心のつもり”が“高すぎる授業料”になってしまう。僕自身がその失敗を経験したからこそ、伝えたいと思っています。

でも、あのときの担当者さんの対応がなければ、僕は“生きててもいい”と思えるところまでは来られなかったと思う。

不安に沈みきっていた自分を救ってくれた、ほんの数少ない存在だった。

今でも、心から感謝している。

そしてもう一つ、心に深く刻まれた教訓がある。

それは──

**「保険は、入ることより“理解しておくこと”が命を守る」**ということ。

僕はたまたま、信頼できる担当者と出会っていたから救われた。
けれど、もしその人がいなければ、保険があるにもかかわらず、僕はずっと不安に潰されていたかもしれない。

どれだけ良い保障があっても、それを知らなければ、支えにはならない。

逆に言えば、正しく理解しておけば、精神的には“救命具”にもなる。

保険は「いくら入っているか」ではなく、「何を理解しているか」で力を発揮する──それが、この入院生活で学んだ一番の教訓だった。

けれど、それでもこう言いたい。掛け捨ては、損か得かで考えるものではない。それは“備える”ためのものだ。むしろ、保険というのは“壊れたときに損失を補うもの”だ。ブルーカラーには“厚めの保障”が必要だし、そのためには掛け捨て保険こそが本来のあり方だ。

正直に言えば、「お金が増える保険」にろくなものは、ほとんどありません。
なぜなら、保険は“守るもの”であって、“増やすもの”ではないからです。
「保険でお金が増えますよ」という営業トークには特に注意が必要です。
投資と保険を混ぜることで、仕組みが複雑になり、リスクも手数料も見えづらくなる。
だから、僕はこういう保険に対して「無知なまま入るのは危ない」と強く思っています。

実際、僕が入った外貨建て保険も、今振り返ればおかしな商品だった。保険と投資を混ぜてしまっているからだ。投資は“増やすもの”、保険は“守るもの”──その本質を理解していなかった僕は、無知ゆえに間違った選択をしてしまった。

保険は、“入る前に学ぶ”ことが鉄則。保険は、味方にもなるし、高い授業料にもなるのだ。

価値のない身体になったと思っていた僕に、「生きてていい」と許可が下りた瞬間。それは、他人の言葉と知識と、ちょっとした希望だった。

そして、もうひとつ記憶に焼き付いているものがある。

急性期病院の高層階から見えた、すごく綺麗な景色だった。

夕焼けが街を染めていく様子、遠くに見える山の稜線、都会の灯りと雑踏──

それが、なぜかものすごく辛かった。

「俺は、もうこの景色の中を歩くことも、働くことも、家族と一緒に出かけることもできないんやな」

そう思うたび、景色の美しさが自分を突き刺すように感じた。

いまでも病院に行くたびに、その景色がフラッシュバックする。
あの時の痛みや孤独や絶望が、一瞬で蘇る。

何年経っても、完全には消えない記憶だ。

──そして、ここからが僕の“再出発”の物語になる。

急性期病院での治療を終え、僕はリハビリ病院へと移ることになった。

そこまでの僕は、“ただ延命されている存在”だった。

急性期病院は「治す」場所じゃなく、「生命をとりあえず維持する」ための場所だった。点滴、管、投薬、モニター。

自分の意思で動かせるのは、腕と顔だけ。誰かの指示で起き、指示で眠り、排泄も他人の手に委ねる。まるで“人間としての自律”が剥奪されたような感覚だった。

そんな生活が何週間も続いた後、転院を告げられたとき。

正直、ほっとした。

でも、それは期待というよりも、「ここじゃない場所に行ける」という逃避に近かった。

リハビリ病院に移ったその日、空気が少しだけ軽く感じた。
カーテンの色も、看護師の声のトーンも、どこか柔らかかった。

そして何より、窓の外に広がる景色。
急性期病院から見えていた、あの“刺すような美しさ”とは違った。

同じような街並みなのに、そこには痛みの記憶がなかった。

「この景色は、まだ汚れていない」

そんなふうに感じた。

リハビリはこれから始まる。
地獄のような日々になるかもしれない。

けれど──

「これから長く見るこの景色は、いいものにしたい」

そう思えた。

ほんのわずかでも、前を向いた。そんな瞬間だった。

家族がなんとか生活を維持できる見通しが立ち、
「生きていてもいい」と自分に許可を出せるようになった僕は、
少しずつリハビリにも前向きになっていった。

だが現実は厳しかった。

これまで当たり前のように動いていた足は、何の反応も示さない。

気持ちは前を向いても、身体がついてこない──

そんな日々が続き、希望と落胆を繰り返す毎日だった。

でも、そんな僕の周りには、もっと過酷な現実と向き合っている人たちがいた。

リハビリ病院には、僕よりもずっと重い障害を負った人たちが多く入院していて、
胸椎や頚椎を損傷し、両手すら思うように動かせない人もいた。

その姿を見たとき、ふと、あのとき医師に言われた言葉を思い出した。

「まだ両手が使えてよかったよ」

あのときは何がよかったんだと反発したけど、今は少し分かる。

“両手が使える”ということが、どれだけ大きな可能性なのか──

彼らの懸命なリハビリの様子を目にするたびに、「自分も頑張らないと」と思わされる瞬間があった。

黙々と、痛みに顔をゆがめながら、それでも前を向いている姿。

その姿は、言葉よりも強く心に響いた。

そしてある日、足に少しだけ力が入った。 ほんのわずか、指先がピクリと反応しただけだったけど、僕にとっては大きな変化だった。

「生きてもいい」と思えるようになった気持ちと、「足が少しでも動いた」という事実。 その二つが重なったとき、初めて“ここから再出発できるかもしれない”と思えた。

生きる意味を、社会や制度や家族に見つけた僕が、身体の中にも「未来への希望」を見つけられた── それが、僕の本当の再出発の始まりだった。

そして僕はもう一度、家族の“柱”になると決めた。

あの病室の天井を見続けていた絶望の時間を、二度と繰り返さないために。 自分の人生をもう一度、家族とともに歩むために。

たとえ1ミリでも──それが、再出発の一歩になると信じています。

📊 ヘタゴリラの“配当記録”と“損益バトル”はXで更新中!

ブログでは語りきれない、リアルな配当金の推移
**日経平均との“持ち株バトル”**など、日々の投資ログをXで公開しています。

👉 ▶ ヘタゴリラのXはこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました