はじめに
※この「黒歴史シリーズ」は、本来ちょっと笑えるテイストで書くつもりでした。
でも今回ばかりは、書き進めるうちにどうしても脚色できず、本当にそのままの素顔で書きました。
過去の自分の判断ミスや情けなさと向き合いながら書いた一編です。
いつもと少し違う雰囲気ですが、どうか最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
特に、僕と同じように「小さな会社の社長」をしていた方、「人が辞めるたびに現場が回らなくなる」ようなギリギリの経営をしている方に届いてほしい。
もっと言えば──僕のように建設業で10人前後で現場を回している社長さんへ。
「今はなんとか回ってる」「人手不足は当たり前」と思っている方にも、この文章を読んでほしいんです。
僕もそうでした。危機感はあっても、目の前の仕事に追われて、それをちゃんと“危機”として直視できなかった。そして、崩れ始めてからでは、もう手遅れだった。
もしこの黒歴史が、「まだ崩れていないけど、どこかで不安を感じている」社長さんに届いて、何かを見直すきっかけになったなら──書いた意味があると思っています。
これは間違いなく、僕自身の失敗の記録です。誰のせいでもなく、社長として、経営者として、判断を間違えた僕の責任です。
目の前の売上や現場を優先しすぎて、根っこの部分を見直す勇気がなかった。その結果として、大切なものをたくさん失いました。
この文章は、そうした過ちから目を背けず、ちゃんと向き合うために書いています。
第1章|順調だった。でも不安定だった
僕の会社は、職人が10人に満たないくらいの規模で、建設関係の仕事をしていました。仕事量は安定していて、利益も出ていました。経営的には決して悪くなかった。
そして当時の僕は、「もっと規模を大きくしたい」とも考えていました。人を増やし、現場も増やし、さらに利益を上げていく──そういう未来を描いていた時期でもありました。
でも一方で、「人手不足」にはずっと悩まされていました。
誰かが辞めればすぐに現場が混乱する。毎回、代わりの人を探すのに苦労して、なんとか回しているという状態でした。
ギリギリだけど、回せていた。そんな状態が数年続きました。
第2章|外国人実習生という希望
そんな中、ベトナム人の技能実習生を2人受け入れることにしました。
彼らはとても真面目で、技術もどんどん身につけ、現場の戦力になっていきました。仕事量も増やせるようになり、「これで少しは人手不足が解消できるかもしれない」と希望が見え始めていました。
ところが、実習生が来てから1年半ほど経ったある日、2人とも突然失踪しました。
当時は外国人技能実習生の失踪が全国的に問題になっていた時期で、「よくあること」とも言われていました。しかしそれは、労働環境の過酷さや受け入れ体制の不備、制度の構造的な問題が背景にあったとされています。
ただ、僕にとってはそんな“よくあること”では到底済ませられない出来事でした。
僕は彼らとちゃんと関係が築けていると思っていたんです。冗談も交わせるようになってきて、仕事への姿勢もまっすぐで、本当に頼りにしていました。
だから、ある日突然姿を消したと聞いたとき、最初は本当に「誘拐でもされたのか?」と思ったほど動揺しました。それくらい、彼らを信頼していたし、まさか自分のところから失踪者が出るなんて夢にも思っていなかったんです。
その後、現実として“失踪”という事実を突きつけられたときのショックは、今でも忘れられません。
失踪後に犯罪に関与するケースも報道されるなど、社会的にも大きな課題となっており、制度そのものの見直しが求められていました。
でも、僕にとってはそんな社会問題とは関係なく、現場の“生命線”が断たれた衝撃的な出来事だったのです。
彼らがいなくなった瞬間、胸に大きな穴が空いたような感覚でした。
「何が悪かったのか」「信頼していたのに、なぜ…」という思いが渦巻き、ショックで数日間はまともに仕事が手につかなかったのを覚えています。
自分が思っていた以上に、彼らに頼り切っていたことをそのとき痛感しましたし、同時に、どこかで“関係性はできている”と過信していた自分の甘さにも気づかされました。
悲しさ、悔しさ、裏切られたような虚しさ──いろんな感情が押し寄せましたが、何よりも「もう現場が回らないかもしれない」という不安が、一気に現実味を帯びて襲ってきたんです。
第3章|静かな崩壊のはじまり
実習生がいなくなったあと、現場のバランスは一気に崩れました。他の従業員にも負担がかかり、雰囲気も悪くなっていきました。
今までは「なんとかなる」で乗り越えてきた現場でしたが、このときばかりは「本当にもう無理かもしれない」と感じ始めていました。
日々、誰かの不満や疲労感が空気ににじみ出ていて、ミスやトラブルも増えていきました。現場の空気がどんどんピリつき始め、冗談も減り、沈黙が増えていく。
それから数ヶ月のうちに、ひとり、またひとりと社員が辞めていきました。求人を出しても人は集まらず、紹介も頼れず、残る人間だけでなんとか穴を埋めようとする日々。
僕はそのたびに「次は誰が辞めるだろう」とビクビクしながら、スケジュール表とにらめっこするようになっていました。
そして、とうとう僕自身が現場に出なければならなくなったのです。
今思えば──このときこそが本当の“分かれ道”だったのかもしれません。
売上が減ってでも、自分の会社を立て直すために時間をかけるべきだった。従業員の声を聴き、体制を見直し、未来のために立ち止まるべきだった。
でも当時の僕は、とにかく「仕事を止めないこと」「こなすこと」「売上を維持すること」ばかりを優先していました。
自分が現場に出ればなんとかなる。とにかく“回せば”なんとかなる──そう思っていた。
でもそれは、大きな間違いだったんです。会社を守るということは、“回すこと”ではなく“立て直すこと”だった。
僕は、目の前の忙しさと売上にとらわれて、もっと大切なものを見失っていた。そして明らかに“選択ミス”をしていたのだと、今では思っています。
第4章|「嫌々、現場に出た日」が運命を変えた

僕はそのとき、すでに現場から離れて数年が経っていました。正直なところ、もう体力的にも気力的にも、現場に出たくなかった。
でも、誰もいないなら自分が行くしかない。そう自分に言い聞かせて、現場に出ました。
当時の僕は、身体の痛みもどこかに感じていたし、「万が一ケガをしたらもう終わりだ」とも思っていました。でも、そんなことを言っている余裕もなかった。背中を押したのは、覚悟ではなく“諦め”だったのかもしれません。
心のどこかで「もう嫌だな」と思いながら仕事をしていると、注意も散漫になる。判断も遅くなる。反応も鈍くなる。現場というのは、そういう“わずかなスキ”が一瞬で命取りになります。
それでも僕は、「社長が頑張ってる姿を見せれば、士気が上がるかもしれない」なんて、どこかで見栄のようなものも抱えていたんです。
でも実際には、そんな姿を見て現場は奮い立つどころか、逆に緊張と無言の圧力が広がっていたのかもしれません。
そして僕は、その現場で事故を起こし、重い障害を負うことになります。
あの日のことは、今でも夢に見るほど、心に残っています。「あのときあの仕事は断っていれば」「私がしゃしゃり出るべきではなかった」と、何度も繰り返し後悔する場面の一つです。
でも、事故の直後──
不思議と、こんな感情が胸に浮かびました。
「僕が障害を負ってよかったのかもしれない」
もちろん、身体が自由に動かなくなったことへのショックや恐怖はありました。 でも同時に、もしこの事故が従業員の誰かに起きていたら── そう思うと、背筋が凍るような恐ろしさを感じました。
従業員の誰かが僕のような重い障害を負っていたら、僕は一生その責任を背負わなければならなかった。 そしてその人も、一生その身体と向き合い続けなければならなかった。
だから、ほんの一瞬だけれど、事故直後の病院のベッドの上で、僕は「自分でよかった」とホッとした気持ちを覚えていたんです。
それは決して強がりや美談ではなく、経営者として、人として、心の底から出た本音でした。
第5章|経営者として、何を学ぶべきだったのか

今だから思うことがあります。あのとき僕は、「社長は最後まで責任を取って現場に出るもの」と思い込んでいました。
現場が苦しいとき、社員が辞めたとき、社長が背負って当然。そう信じて疑わなかった。でも今は、はっきりと言えます。
社長が潰れたら、会社も、人も、何もかもが崩れる。
だからこそ、経営者は「一番頑張る人」ではなく、「一番冷静に状況を判断、決断できる人」であるべきだったんです。
会社を守るとは、現場に出ることではなく、現場が持続する“仕組み”をつくること。
従業員の頑張りに頼らなくても回るような“体制”を整えておくこと。それが本当の責任でした。
- 属人化していた業務の見直し —— 「あの人がいないと困る」状態ではなく、「誰がやっても同じように回る」仕組みをつくる。
- 急な退職に備えるマニュアルと体制 —— 「抜けた穴を急いで埋める」のではなく、「誰かが抜けても崩れない」土台を持つ。
- 同業者と連携できるバックアップの用意 —— 「何かあったときに慌てる」のではなく、「何かある前提で備えておく」。
これらはすべて、“守る経営”のために必要なことでした。
そういった「守る仕組み」を、もっと早く作るべきだったんです。
今振り返ると、当時の僕は「売上の維持」を最優先に考えていたのかもしれません。
下請けとしての立場上、仕事を断れない状況を自分で作り出していたし、「お金さえ出せば人は動く」と、どこかで思っていた部分もあったと思います。その結果、従業員にも無理をさせてしまっていた。
実習生の失踪も、社員が少しずつ辞めていったことも、そして最後に自分が障害者になったことさえも、今思えば「売上を落とせない」「もっと利益を出さなければ」という、数字ばかりを優先していた自分の責任だったのではないかと感じています。
そして正直に言えば、僕のような弱小企業は、元請け業者の言うがままになってしまう場面も多かったです。「断ったら次はないかもしれない」という恐怖が常にあり、自分の会社よりも“相手の顔色”を気にしていたように思います。
その中で、従業員の気持ちや体調をじっくり汲み取る余裕なんてなかった。いや、あったのに見ようとしなかったのかもしれない。現場がギリギリで回っているなかで、気づけないふりをしていた情けない自分がいました。
それに加えて、今振り返ると、自分の中に「社長の自分が現場に出ているのだから文句は言うな」という、傲慢な気持ちもあったと思います。
「俺が一番頑張ってる」「俺がここまでやってるんだから、お前たちもやれ」──そんな空気を、自分で作ってしまっていた。だからこそ、社員たちの疲れや不満に真正面から向き合うことができなかった。
あの頃の自分は、“背負っている”つもりが、実は“押しつけて”しまっていたのかもしれません。
今思えば、僕が現場に出ることで、逆にプレッシャーを与えていた可能性もあります。「社長が来てるんだから、自分たちも休めない」「手を抜けない」という無言の圧力を生んでいたのだと思います。
だから、「社長が現場に出て責任を取る」というスタンス自体が、大間違いだった。
僕がいくら現場に出て頑張ったところで、そんなことで従業員の本当の気持ちや状況が変わるわけじゃないんです。
本当に変えるべきだったのは、自分が前に出ることではなく、仕組みや体制を整えて、前に出なくても回る環境をつくることだった。それに気づけなかったことが、すべての始まりだったのだと今は思います。
経営者として、守るべきは「売上」ではなく、「持続可能な現場」と「働く人たちの安心」だったのに、それを見失っていたんです。
第6章|障害者になって、なぜ廃業を選んだのか
もしかすると、「障害者になっても、経営は続けられたのでは?」と思う方もいるかもしれません。たしかに、パソコンや電話で指示を出すことも、帳簿や書類の管理をすることも、やろうと思えばできたのかもしれません。
でも、当時の僕にとってそれは“形だけの経営”にしか思えませんでした。寝たきりの状態で、現場を知らないままに口だけで指示を出す──そんな立場に自分がなることに、強い抵抗と葛藤があったんです。
動けない自分が、現場で必死に動いている従業員に「こうしろ」「ああしろ」と言う構図が、どうしても受け入れられなかった。それは経営ではなく、“支配”のように感じてしまったんです。
入院中にも鳴り止まない仕事の電話。返事をしなきゃと思いながらも、体も心もついてこない。焦りと苛立ち、そして自分の無力さに打ちのめされる日々でした。
それでも、「なんとか会社を残さなければ」と無理に頭を働かせようとしたこともあります。でも、ふと気づいたんです。
「会社を残すこと」と「誰かが幸せになること」が、もう一致していないのではないか?
残された従業員たちにとって、先が見えないままの不安定な職場に残ることは、本当に幸せなのか? そして僕自身、もう以前のような熱量を持って経営に向き合えるのか?
悩みに悩んだ末、信頼できる同業者に相談し、従業員たちにはそちらに移ってもらう形で、事業を畳みました。
経営者として無念でした。でも、人として、自分の限界を認めるしかなかった。今思えば、もうそのときの僕には、会社という“看板”を守ることよりも、従業員や家族、自分自身を守ることを優先したかったのだと思います。
まとめ|この黒歴史を誰かのヒントに

事故で障害を負い、事業もたたみました。
でも、その失敗の中で見つけた「投資」や「時間の使い方」、「お金の守り方」は、今の僕にとって人生を立て直す大きな武器になっています。
この黒歴史は、今でも痛みを伴います。8年間、僕はこの出来事を何度も振り返り、後悔し、懺悔し続けてきました。どこで間違えたのか、もっと別の選択肢があったのではないか、今でも自問自答しています。
このブログでこうして晒したからといって、誰かの役に立つとも正直思っていません。これは誰かへの教訓ではなく、自分自身への戒めとして書いています。
今も、こうして文章を書きながら、心のどこかで「本当にここまで書いていいのか」と悩んでいます。
それでも──この痛みと向き合い、言葉にすることで、ようやく過去と向き合える気がしています。
読んでくださって、本当にありがとうございました。
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